速読書評 アメリカ有名大学の超人気講義『スタンフォードの自分を変える教室』① | SP速読学院

速読ブックレビュー スタンフォードの自分を変える教室①

辻インストラクター書評『スタンフォードの自分を変える教室』

スタンフォードの自分を変える教室 (大和書房) スタンフォードの自分を変える教室 (大和書房)

ケリー・マクゴニガル(著)/神埼朗子(訳)
344ページ

スタンフォード大学の超人気講義、ついに日本上陸。
心理学、神経科学から経済学まで、最新の科学的成果を盛り込み、受講した学生の97%の人生に影響を与えた「驚くべきレッスン」。

【読書の所要時間】 1時間40分(熟読で1回)

多くの書店にて猛プッシュを受けている本があります。『スタンフォードの自分を変える教室』という本です。大型書店にてランキングコーナー周辺に目を光らせてみてください。青い表紙が印象的なこの本を、かなりの確率で目にすることと思います。
 ジャンルとしては啓発本ですが、中身は実質、講義録です。アメリカ、スタンフォード大学にて人気を博した一連の講義の書籍化であり、講師は心理学分野における新進気鋭の女性研究者だそうです。世界的ベストセラーということですが、なぜこれ程までに売れているのでしょうか。
 テーマそのものは、ありふれたものと言えるでしょう。タイトルにある「自分を変える」という表現はやや目新しさに欠けるかもしれません。書店にはあらゆる種類の啓発本が溢れており、それらは全て「よりよい自分になるための方法論」つまり「自分を変える」ことについて説いているからです。
 さて、自己変革には継続した努力が必要とされる、というのは多くの啓発本の説くところです。しかし、その努力を続けることこそが難しいというのが正直なところではないでしょうか。努力を続ければそのうち素晴らしい自分になれる、しかしそのことと、努力を無事に継続出来るかどうかは別問題だという事情は、勉強すれば成績が上るのは分り切った話だが、さりとて勉強に取り掛かる気には何故かなれない、という誰もが持つ経験と変わりません。とすると、全ては「やる気」の問題、つまり努力を続ける「意志力」の問題に還ってきます。
 この『スタンフォードの自分を変える教室』の秀逸な点は、あらゆる問題を「意志力」の問題へと収束させた点にあるといえそうです。構成は実にすっきりしており、全編通じて意志の問題だけが取り上げられます。「意志はどういう性質を持つか」「どうすれば発揮され、どういう時に萎えるのか」「意志力は鍛錬できるのか」などが考察され、それらは全て「上手な自己コントロールの方法」という最終目標に向けられています。  この本が教える知見には、私達の常識に一見反するものが多い点も一つの見どころでしょう。目次を眺めてみると、「自分に厳しくしても意志力は強くならない」「”やることリスト”がやる気を奪う」といった小見出しが目に飛び込んできます。元来、多くの啓発本には多かれ少なかれ、根性論的な要素が入っているといえるでしょう。よりよい自分になるためには自己研鑽を必要とし、そのためにやるべき事を細分化して列挙し、あとはそれらを断固継続する、といったイメージの表れでしょうか。その点において『スタンフ ォードの自分を変える教室』は確かに独自路線を走っています。しかしその違いは、単なるポリシーの違いに由来するものではありません。本文中では、努力に対する反骨的な”成り行き任せ主義”は説かれていません。この本の独自な意志論は、あくまで「意志とは何か」という問題を冷静に観察・分析し、実証した結果によっています。  実証性はこの本の一大特徴をなしており、本文中には多くの実例が参照されています。専門的な脳科学的説明や実験結果がふんだんに盛り込まれ、客観的なデータとして説得力を持たされています。そしてそれらの専門的知見が、身近な実例へと落とし込まれます。
 本文には、実験として「今ダイエットしてるんだ~」といいながらデザートに手を出す女性や、忍耐テストで猿にも負ける男性など、愉快な逆説的心理が多く紹介されています。しかし、それら被験者の具体的な失敗一つ一つを安易に笑えはしないでしょう。それらの事例は、過去、誘惑に負けた際の自分がとった行動を思い起こさせ、”身に覚えがある”感じを払拭できないのです。
 実際、この本はスタンフォードの心理学を専攻する学生だけを対象としているわけではありません。内容には一般性があり、全ての人たちに開かれています。専門用語は極力排され、誰にも分かりやすい語り口で講義は進められます。エピグラフに「誘惑や依存症に苦しんだり、物事を先延ばしにしたりやる気が出なかったりして困った経験のある方々-つまり、すべての人-」とある通りです。この奥には、「意志力」の問題がごくごく一般的な日常生活にも関わる問題であり、誰にとっても躓きの石となりうるという洞察が潜んでいます。そのため著者は、より上手に意志をコントロールすることの重要性を説き、そのためのアイデアを無際限に提供してくれている、ということがわかります。「自己コントロール」の成否が、全生活の成り行きを支配しているからです。だからこそタイトルに「自分を変える」と掲げられているのでしょう。
 著者による、次のような言い分に興味を持たれた方にはお勧めしたい一冊です。「自己コントロールの探求においては、私たちが自分に向かってふりかざすおきまりの武器-罪悪感、ストレス、恥の意識-は何の役にも立ちません。しっかりと自分をコントロールできる人は、自分と戦ったりはしません。自分のなかでせめぎ合うさまざまな自己の存在を受け入れ、うまく折り合いをつけているのです。」

(辻インストラクター 2013年1月)


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速読ブックレビュー・書評

辻インストラクター書評『遠野物語―付・遠野物語拾遺』

遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川学芸出版) 遠野物語―付・遠野物語拾遺 (角川学芸出版)

柳田 國男 (著)
268ページ

かつての岩手県遠野は、山にかこまれた隔絶の小天地で、民間伝承の宝庫だった。柳田国男が民間伝承の宝庫でもあった遠野郷で聞き集め、整理した数々の物語集。日本民俗学を開眼させることになった「遠野物語」は、独特の文体で記録され、優れた文学作品ともなっている。

【読書の所要時間】 2時間(熟読で1回)

岩手県に遠野という街があります。民話で有名な所です。岩手の山深い地勢において、僅かな平地を見つけて点々と連なる諸都市の並びからはやや孤立し、山中の盆地に位置する街です。(岩手の地図を見れば一目瞭然ですが、岩手の諸都市の並びにはわかりやすい規則性があります。海岸沿いに陸前高田・大船渡・釜石・宮古など震災関係で耳にする街々が縦に並び、内陸では県中央を南北に伸びる狭隘な平地に一関・北上・花巻・盛岡などが等間隔に連なります。それ以外は山地です。そして遠野はまさにその山地に位置しています。)
 今は民話の町として栄える遠野ですが、その源流となったのがこの『遠野物語』です。著者は柳田国男という人で、日本の民俗学の創始者として有名です。発行は明治四十三年。遠野に伝わる民話や伝説・習俗を柳田国男が人づてに聞き、書き留めたもので、一種の民話集のような趣を持っています。
 現代でこそ古典として扱われつつある『遠野物語』ですが、内容においては重要な知識も教養も与えてくれることはありません。河童やザシキワラシなど、現代にも名の通った物の怪もいくつか登場こそします。しかし大方は遠野土着の名も知らぬ伝説や習俗に終始しており、民俗学という分野に入れ込む人、遠野という土地に何らかの縁のある人でなければ興のそそられようがないかも知れません。
 いくつか短い例をあげましょう。
「四十 草の長さ三寸あれば狼(おいぬ)は身を隠すといへり。草木の色の移りゆくにつれて、狼の毛の色も季節ごとに変はりてゆくものなり。」 「九八 路の傍に山の神、田の神、塞(さえ)の神の名を彫りたる石を立つるは常のことなり。また早池峰山六角牛山の名を刻したる石は、遠野郷にもあれど、それよりも浜にことに多し。」  終始このような感じです。一口に「狼は毛の色が変わる」「アニミズム的な石碑が多くある」と言ってしまえば身も蓋もなく、また事実それ以上のことはまるで語られていません。本編は文庫本にして80ページたらず、119の小エピソードがただただ並置されているのみで、作りはこれ以上なく簡素なものです。構成も文体も野ざらしのままで、作為の影など一切顔を出しません。そういった形式の中で紹介される種々の伝説も、紹介、というよりはまるで独りごちるかのように、ただ 訥々と語られてゆくのみです。
 したがって、この本から何かを得ようとする試みは空を掴むでしょう。現代的な知見はもちろん入っておらず、時代に左右されることなく通用する思想といったものも、一読しただけで掴み出すのは困難でしょう。実用的な知識、社会を生き抜く手練手管、それどころか日常的な生活の知恵というほどの内容すら込められていません。話はおよそ荒唐無稽とよんで差支えないもので、夢と現実を行き来しているような印象すら与えます。さりとて、小説を読むような娯楽性を求めるには枯淡に過ぎます。味気ないのです。ストーリーは多く山なしオチなしで、起承転結もはっきりせず、ぶつ切りな印象すら与える場合が多々あります。
「三四 白望(しろみ)の山続きに離森(はなれもり)といふ所あり。その小字に長者屋敷といふは、全く無人の境なり。ここに行きて炭を焼く者ありき。ある夜その小屋の垂れ菰(こも)をかかげて、内を窺ふ者を見たり。髪を長く二つに分けて垂れたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫び声を聞くことは珍しからず。」 この完結した一つの話から、なんとなく不気味な印象以外のいかなるものも得られようがないではないでしょうか。

 では『遠野物語』は無用の書なのでしょうか。読書に実用的な知識を求めている限りではそう言えるかも知れません。この進んだ時代に、今さら「山神山人の伝説」もないでしょう。しかし柳田国男が序文にて「願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ。」と語った通り、『遠野物語』にはある種の戦慄を催させるような凄みがあります。ぶっきらぼうな、枯れたような語り口でいてしかしその中に、淡いものですが、豊かな情趣が確かに潜んでいると感じさせるのです。
 “無用の用”といった難しく曖昧な概念を振り回す必要はありません。『遠野物語』に籠められている味わいのようなものは、この本に有用性や、穿ったような解釈などをこちらから押し付けようとしない限り、誰にも感じられるものに思います。この本に関しては何かを得よう、何かに役立てようという心意気自体が読書を欺きかねません。現代に通用する内容や合理性を求めることはお勧め出来ません。本文は、そういった考え方とは真逆の考え方で満たされているからです。興奮や感情移入といった刺激、感情を波立たせるような娯楽性を求めるのもおそらく無益でしょう。「何が言いたいのかわからない」といった批判も的外れでしょう。テーマ性などという重厚な概念が、この本にとって余計な装飾以上の意味を持つとも思えません。もちろん、教養人必携といった大層な見方とも合いうことはなさそうです。『遠野物語』に関する限り、読書にはある種の虚心坦懐を必要とします。疲れた時に何とはなく風景に目をやり、例えば山を見て、その姿が心に沁みるといった誰でも持つ経験と同種の精神を必要とするのです。一種の詩情が求められるように思います。
 確かに現代では珍しい本と言えるかも知れません。その事情は発刊当時も変わらなかったらしく、柳田国男の手になる序文は自虐に満ちています。「思ふにこの類の書物は少なくも現代の流行にあらず。」「自己の狭隘なる趣味」「今の事業多き時代に生まれながら、問題の大小をもわきまへず」などです。しかし直後に柳田は力強く開き直りを見せています。「はて是非もなし。この責任のみは自分が負はねばならぬなり」。
 『遠野物語』に含まれる夢幻性を、現実的でなく、合理性がなく、したがって何の役にも立たないと断ずる方には、柳田国男の次の言葉が一つの指針になるかも知れません。「要するにこの書は現代の事実なり」。この一言で表現された、『遠野物語』の幻想趣味的な世界を遠野の“事実”と断定的に言い切り、そこに一つの楽しみを発見した柳田国男の信念こそ、この本の無類の価値と結びついているのではないかと感じます。
 そういった意味では、全ての方にお勧めしてみたい本です。「無意味な本だ」「退屈だ」といった感想を持たれる方はおそらく多いでしょう。しかし、無意味で退屈なのは本の方なのか、はたまた自分自身なのか、わかったものではないでしょう。

(辻インストラクター 2012年4月)


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